歌舞伎
歌舞伎の由来
歌舞伎は、出雲の阿国が「かぶき」踊りをはじめたことに由来するという。「かぶき」の原義である「かぶく」というのは傾くの意で、人並みはずれた奇態や異風を意味した。武士が長い刀を腰に差し、頭の髪を異風にし、女性が男装して歌い踊る風俗を指した。しかし、江戸幕府は女性の歌舞伎を禁じたので、男性だけで演じる「野郎歌舞伎」となった。歌舞伎は、人形を使う芝居から示唆を受け、人間が芸能を演じるようになり、竹本義太夫の出現により義太夫が盛行すると、義太夫の語りにより芝居をするようになったのである。
歌舞伎の地方興行
この歌舞伎が京大坂から江戸に移り、江戸町民の熱狂的な評判を得て、江戸歌舞伎が定着する。この歌舞伎が一座を設け、次第に地方へも興行に出かけるようになった。群馬県にいつごろから歌舞伎が行われたかは定かでないが、『沼田記』という江戸時代の記録には、沼田城主真田信幸が大坂で徳川方について勝利を納めて元和元年に沼田に帰陣した後、沼須の新田を開発した祝いとして、元和2年(1616)に歌舞伎を呼んで領民に見せたと記されている。
買い芝居と地芝居
群馬県は江戸時代には上州と呼ばれ、江戸の経済圏・文化圏に含まれ、多くの芝居一座が巡業に訪れていた。歌舞伎は、娯楽に飢えていた人々に熱狂的に受け入れられた。特に義太夫は若者に人気の芸能となった。
芝居には買い芝居と地芝居がある。買い芝居は、専門家の集団を呼んで対価を払って上演するもので、これに対し、地芝居は地元の素人が自ら役者となり演じる芝居である。農民が芝居に熱中すると農業を怠るという理由からたびたび地芝居の取り締まりが行われた。しかし、それでも人々は歌舞伎に熱を上げ、芝居や義太夫の練習をしたのである。
日本最古のまわり舞台
その歌舞伎熱が、日本最古のまわり舞台である渋川市赤城町上三原田の歌舞伎舞台(国指定重要有形民俗文化財)を始め、県内各地に常設の舞台を建設していき、県内の歌舞伎舞台は60か所を超える。渋川市赤城町津久田の人形舞台と利根郡みなかみ町下津小川島の歌舞伎舞台は、ともに県指定重要有形民俗文化財に指定されている。
豪華絢爛な歌舞伎衣装
前橋市富士見町の「横室歌舞伎」は、宝暦2年(1752)に歌舞伎をはじめたという。近世後期になると豪華絢爛(ごうかけんらん)な歌舞伎衣装を江戸からたくさん買い求め、中には名優市川団十郎の使用したと伝えられる衣装もある。これら衣装類は近隣へも貸し出された。現在、豪華な衣装類の一部は、県指定重要有形民俗文化財に指定されている。
(文責:板橋春夫)
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