群馬の民俗芸能

人形芝居

浄瑠璃に合わせて操る

八城人形

 人形芝居は近世初期に成立した。本来、人形自体はクグツと呼ばれ、神が宿るものとして神聖視された。それが人形まわしと呼ばれる遊芸人によって次第に芸能化され、浄瑠璃(じょうるり)にあわせて人形を操ってドラマを演じるようになった。人形一座は淡路や大阪方面に発生したものが古く、これが関西から江戸へ移ってきた。群馬県に残る人形芝居もその系統が多い。廃絶した人形芝居も含めると、かつて県内には40か所以上で人形芝居が演じられていたといわれる。

地域へ定着した人形芝居

尻高人形

 多くの人形芝居は明確な史料を残していないが、渋川市赤城町津久田人形には、享保8年(1723)の「八幡宮操人数覚帳」が残され、安中市松井田町八城人形は宝永8年(1711)に初上演と伝える。群馬県の人形芝居は、衣装や頭の墨書銘などから江戸中期以降盛んになったことが分かる。

 旅芸人一座が村にやってきて人形芝居を興行し、村人は人形芝居の面白さに目覚めて、ついに人形一式を買い求めて指導を受けたという伝承が各地に伝わる。利根郡みなかみ町下牧人形、沼田市沼須人形、吾妻郡高山村尻高人形などがその例である。村人は、買い人形芝居よりも、自ら上演することに生きがいを見出し、義太夫や三味線を習い、人形の振りを覚える努力を惜しまなかったのである。

一人遣いと三人遣い

 津久田人形、下牧人形、八城人形はいずれも三人遣(づか)いで、尻高人形と沼須人形は一人遣いである。三人遣いは江戸中期に発生したもので、微妙な動作を演出できる人形で、現在の浄瑠璃の系統である。座員も大勢必要なので、比較的小規模の村では一人遣い人形が多かったようである。

 一人遣いは、一人で演じるので複雑な動作ができないが、その欠点を補うために沼須人形では、「ふくささばき」という技術を取り入れ、尻高人形は差し金という補助器を用いて三人遣いの動きに近づけようと工夫し、別名「差し金人形」とも呼ばれた。差し金の使用は名古屋からきた豊松流に多かったという。

操り翁式三番

 前橋市下長磯町に伝わる操り翁式三番(あやつりおき なしきさんば)は、二人遣いで演じる人形である。舞が終わると氏子たちが面箱の下をくぐるが、こうするとその年は無病息災でいられるという。現在、群馬県内では前橋市下長磯町の操り翁式三番だけが上演可能であるが、甘楽郡南牧村星尾や前橋市粕川町込皆戸にも面が残され、かつては各地で演じられていたと思われる。

全国的に珍しい糸操り灯籠人形

 安中市中宿の糸操り灯籠人形(いとあやつりとうろうにんぎょう)は、張り子の人形で和紙に蝋(ろう)を薄く塗って光が透けるようになっており、舞台の下で人間が糸で操る仕掛けである。上演時には人形の中に明かりが灯される。糸操り灯籠人形は、乗馬のまま籠を抜ける「籠抜け」と「安珍清姫」「俵担ぎ」「三番」の四つの演目を伝えている。この糸操り灯籠人形は、全国的にも例を見ないもので、国指定重要無形民俗文化財に指定されている。

(文責:板橋春夫)

※写真の転載はお止め下さい。