群馬の江戸時代
モザイク模様の支配
戦国争乱の時代をへて、天正18年(1590)徳川家康が江戸城へ入ると、上野国は関東北辺の守りを固めるため、箕輪城に井伊直政、館林城に榊原康政などの有力武将が配された。その後、江戸時代を通じて約40家の大名が改易・転封などをくり返したが、幕末期には9藩が分割支配した。その所領の分布状況は、9藩の大名領のほかに幕府領や旗本領などが複雑に入り組み、いわばモザイク模様を示していたところに大きな特色があり、このことが上野国内の政治・経済や地域文化の形成に大きな影響を与えた。
縦横に走る交通網
慶長5年(1600)関ヶ原の戦いで勝利した徳川家康は、翌年から江戸を中心とする全国的な交通網の整備に着手した。上野国は中山道をはじめ、三国街道、日光例幣使道、足尾銅山街道などが縦横に走り、参勤交代の大名や幕府役人・公家などが往来したほか、信濃(長野県)・越後(新潟県)方面からは大量の年貢米や商品荷物なども運び込まれ、地域経済の発展や江戸・上方文化の流入に大きな役割を果たした。これらの物資の多くは利根川舟運で江戸へ廻送されたため、烏川の倉賀野河岸や利根川の平塚河岸など、利根川水系には数多くの河岸が発達し、水陸交通の結節点となった。
蚕糸業の発達と特産物
上野国は耕地の大半が畑地であったため、農民の多くは麦・豆類の生産や林業・山稼ぎなどを主な生業とした。この畑作農業に関連して江戸時代中期以降、上野全域で盛んになったのが養蚕・製糸・織物業である。江戸後期にはその工程が地域的に分業化され、原料繭を供給する利根・吾妻郡の養蚕地域、赤城南麓から渡良瀬川流域の製糸地域、桐生・伊勢崎の織物地域が形成された。なかでも桐生の絹織物業は、元文3年(1738)京都の西陣から「高機」(たかはた)を導入して以降、飛躍的な発展を遂げて「関東の西陣」と称されるようになった。
一方、西上州の地域では各農家が養蚕から織物まで一貫して生産する方式が幕末まで続いていた。このため、三井越後屋などの大商人が藤岡町などに出店を開き、製品となった生絹(きぎぬ)を買い集めて江戸や京都の市場へ出荷した。さらに幕末の安政6年(1859)の横浜開港で輸出向け生糸の需要が増大すると、吾妻の中居屋重兵衛や大間々の吉村屋幸兵衛など、多くの生糸売込み商人が積極的に横浜へ進出した。ほかに西上州や吾妻・利根地域の麻・煙草、甘楽郡砥沢村の砥石、万座・白根山の硫黄・湯花など、各地域の特産物が出荷されて江戸を中心とした経済圏を形成することになった。
学問・文化の芽生え
江戸時代中期以降、上野諸藩の財政状況が悪化するなかで、天明3年(1783)の浅間山大噴火と、それに続く天明の大飢饉は庶民生活に大打撃を与え、社会不安を増大させた。このため幕府は寛政5年(1793)岩鼻陣屋を設置し、困窮する農村の復興と治安維持を図ることになった。
一方、文化・文政期頃からは藩校や寺子屋の普及によって学問・文化活動が盛んになり、儒学・国学・蘭学などの分野で多くの学者や文人を輩出することになった。さらに赤城・榛名・妙義山などへの社寺参詣や湯治などを目的とした庶民の旅も一般化し、草津・伊香保などの温泉地を訪れた江戸の文人・画人らとの交流をとおして和歌・俳諧などの庶民文芸も各地に広まっていった。このほか、庶民の娯楽として祭礼や村芝居も各地で催され、赤城山西麓や三国街道筋では農村歌舞伎も盛んになった。
維新への幕開け
幕末期になると全国的に尊王攘夷運動が高まるなか、上野国では元治元年(1864)水戸の天狗党が高崎藩と下仁田付近で一戦を交えた。また慶応2年(1866)頃からは各地で大規模な打ちこわし騒動がおこり、同4年(1868)の群馬郡権田村における小栗上野介の処刑や三国戦争・戸倉戦争をへて、ついに江戸幕府が崩壊し、上野国も御一新の時代を迎えることになったのである。
(文責:岡田昭二)
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