群馬の中世
古代が貴族中心の社会であったとすれば、中世は武士が支配する社会として開幕する。
上野(こうずけ)の武士達は、鎌倉・南北朝・室町・戦国時代と、それぞれの時期において土地の支配をめぐり抗争をくり返した。中世上野の特徴は、土地の支配・信仰・他地域との繋がり等の面で、利根川を境として東西に分けられることであろう。
東上州は、新田荘(にったのしょう)・佐貫荘(さぬきのしょう)などを基盤とする伝統的な有力豪族層によって支配されたため、守護(しゅご)からの直接的な支配を受けることが少なく独自性を保つことができた。この中で新田氏が大きく成長し、鎌倉幕府を倒す一方の勢力にまでになった。南北朝時代以降にも、岩松氏や由良氏も金山城を拠点に大きな勢力を保ちながら君臨した。一方西上州は、中小の領主層が分布し有力な豪族領主が育たなかったため、幕府から任命された守護から直接支配を受けた。鎌倉時代には安達氏(あだちし)、北条得宗家(とくそうけ)の支配を、南北朝時代以降は関東管領(かんとうかんれい)上杉氏からの支配を受けた。東の独自性に対し西の隷属性と際だった対照である。
人々の信仰面でも上野国は利根川を境に東西に区分される。東上州の人々は赤城山を信仰し、西上州の人々は榛名山を信仰した。両山の山麓には赤城神社・榛名神社が数多く造営されていることからも両山が人々から大きな信仰を集めていたことがわかる。 他地域との繋がりでは、南北朝以降東上州の岩松氏は、その東に連なる小山氏・宇都宮氏・那須氏・千葉氏・小田氏・佐竹氏などの伝統的豪族層と結びつき、古河を拠点とした鎌倉公方(かまくらくぼう)足利氏を擁したのに対し、西上州では関東管領上杉氏が守護として中小の領主層を組織し、西上州を基盤として北は越後国・南は武蔵国・相模国に連なる大ベルト地帯を作り対抗した。利根川は上野ばかりでなく関東全体を二分する境界を形成したといえよう。その後、周辺から越後の上杉氏・相模の北条氏・甲斐の武田氏の三戦国大名が進出し、三つ巴の争いをくり返し、上野の武士達はその都度翻弄(ほんろう)されるが、豊臣秀吉の関東進出によりようやく統一され、近世を迎えることとなる。
上野の中世は、武士達による土地支配のための長い抗争の歴史だったといえるが、利根川・赤城山・榛名山などの大自然によって形成された風土に、大きな影響を受けたといえよう
(文責:磯部淳一)
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