群馬の明治時代から現代

日本の近代化と群馬

上劦冨岡製糸場図(群馬県立博物館所蔵)

 幕末・維新の激動期をへて明治4年(1871)新たに誕生した群馬県は、明治新政府による殖産興業と開化政策のもとで、産業と教育面で大きな特色がみられた。産業面では、蚕糸業が幕末の開港以降急速な進展をみせ、そのなかで群馬県は海外輸出品の7割を占める生糸の生産が全国第1位であった。技術面では、伝統的な座繰製糸を改良したり、日本で最初の洋式器械製糸を導入する一方、アメリカへ生糸、イタリアへ蚕種を直接輸出するなど、日本における蚕糸業の近代化に大きな役割を果たした。こうした生糸などの海外輸出を背景として欧米文化も積極的に受け入れ、それが新島襄に代表される県内のキリスト教の普及と学校の設立を促すことになり、「東の群馬、西の岡山」といわれるような教育県となった。そして、教育の普及がその後の廃娼運動あるいは内村鑑三・柏木義円らの平和主義・非戦論として結実していった。

 政治面では、群馬県は東日本における自由民権運動の一大拠点となり、県下のみならず中央で活躍する多くの人材を輩出し、国会開設や憲法制定など近代政治の確立を求めて指導的な役割を果たした。また日本の近代化を象徴するものとして鉄道の建設があり、明治17年(1884)の高崎線(上野-高崎間)、さらに同22年の両毛線の開通などは、群馬・栃木両県の製糸・織物業の発展に大きく貢献することになった。

生糸王国の盛衰

新島襄肖像画(湯浅一郎画・安中教会所蔵)

 明治期後半から大正期は「生糸王国群馬」といわれるように製糸・織物業が基幹産業となり、明治43年(1910)に開催された一府一四県連合共進会は群馬の近代化をいっそう促進させた。また大正期に入ると利根川水系を中心に水力発電所が各地に設置され、電力の供給は新たな工業化を推し進め、座繰製糸にかわって機械製糸がシェアを拡大する一方、織物業でも力織機による生産が高まった。

 しかし、第一次世界大戦後の不況は群馬の生糸・織物業界にも大きな打撃を与え、労働運動を活発化させた。農村でも大正10年(1921)以降、各地で小作争議が頻発した。そして、労働運動・農民運動などを通して民衆の政治意識が高まってくると、群馬県でも大正デモクラシーの気運がみなぎり、県下各地で普通選挙運動がくり広げられた。こうしたなかで、萩原朔太郎はじめ山村暮鳥・大手拓次・萩原恭次郎らの近代詩人が輩出し、新たな文化活動も芽生えてきた。

 昭和期に入ると、金融恐慌や世界恐慌の嵐が吹き荒れて生糸・繭の価格が暴落し、農村の疲弊と産業経済の沈滞化は県民生活の窮乏や失業者の増加をまねき、県政界でも深刻な問題となった。この閉塞状況のなか、やがて時代は太平洋戦争へと突入し、戦争末期には太田の中島飛行機工場や前橋・高崎・伊勢崎の市街地が大空襲をうけて焦土と化した。

戦後の混乱と復興

安中教会(新島襄記念会堂)

 戦後の混乱と窮乏に加えて、あいつぐ台風の襲来は県下に多大な被害をもたらしたが、県民の懸命な努力で復興事業が進められた。とくに経済の復興では農業と軽工業を中心に行われた結果、農業は昭和30年前後に生産高が戦前の水準にまで回復した。一方、工業団地造成による工場誘致も進められ、農業県から工業県への脱皮をはかった。そして高度経済成長期には軽工業に代わって重化学工業が発展するとともに、利根川水系ではダムの建設も促進され、「電源ぐんま」として首都圏へ電力を供給した。また昭和58年の「あかぎ国体」を契機に上越新幹線や関越自動車道などの高速交通網も整備され、山や温泉などの豊かな自然と観光資源を活用して観光客の誘致が図られた。

新たな文化施策

 近年では県人口二百万人到達を記念して映画「眠る男」が製作(平成7年)され、また「国民文化祭」の開催(平成13年)、そして「富岡製糸場と絹産業遺産群」の世界遺産への登録運動など、県の行政施策もハード面からソフト面の充実へと転換されつつあり、地域の芸術・文化活動などもあらためて見直されている。     

(文責:岡田昭二)

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