群馬の古代
群馬の歴史の幕開けとなる古代(旧石器時代~古墳時代)には、全国的に見ても有名な遺跡がたくさんある。
笠懸町の岩宿遺跡の発見は、日本の歴史が旧石器時代までさかのぼることを教えてくれた最初の遺跡である。その後全国各地で旧石器時代の遺跡が次々と発見されたが、群馬県でも山麓部から平野部にかけて旧石器時代遺跡が続出している。
縄文時代の遺跡も数え上げれば切りがない。現在、群馬県で人々が生活している場所のほとんどのところに縄文人が暮らしていたと言ってもいいだろう。縄文時代になって、生活の場が大きく拡大していったことがわかる。全国的に見ても縄文時代の遺跡の多さは指折りである。
旧石器時代から縄文時代の人々の生活の糧(かて)は狩猟・採集から得られていた。そのような生活にとって、群馬の自然環境は非常に有利だった。なぜかというと周囲を発達した山々に囲まれ、そこから大量の水を平野部に利根川を始め、たくさんの川を通じて供給していたからである。山々の山麓や平野部に育まれた森や雑木林は、あふれんばかりの木の実や果物、その他の食べられる植物で毎年埋め尽くされた。これを旧石器人や縄文人が食料としたことはもちろんであるが、鹿やイノシシなどの動物もこれによって育てられた。この動物を狩猟することによって、人々の生活がさらに豊になったことは十分想像できる。
一方、日本でも指折りの大河(たいが)利根川とそこに注ぎ込む数多くの支流には、秋になると海から産卵のために大量のサケが遡上してきた。これがまた、人々の重要な食料になったわけである。群馬県の地域が、人々の生活にとっていかに自然環境に恵まれていたかがよくわかる。
この発達した山々と豊かな水を湛(たた)えた河川が、農業中心の時代となった弥生・古墳時代にとっても有利な条件となった。特にその有利さを十分に発揮したのが古墳時代の群馬である。その証拠に多くの労働力を費やして築造し、豪華な副葬品と埴輪を伴う古墳の数は、全国的に見ても、奈良県・大阪府・岡山県・福岡県と並んで最も多い部類に属する。
稲作を中心とする農業にとって最も大事なことは、肥沃な土地と豊富な水に恵まれていることである。その点、群馬県の背後にそびえる山々から流れ下りる大小の河川は、平地部に肥沃な土壌と豊富な水を供給し続けたわけである。水を調節する灌漑用水を利用した大規模農業は、古墳時代に入ると開始される。この時期を迎えるや、群馬県の地域は時を得たりとばかり、平野部の大開発が一挙に始まり、全国屈指の有力地域になっていったのである。また、広大な山麓部を中心に、水田の営まれない土地では広く畑作が行われたことも、各地で見つかる畑跡の発見から明らかになっている点も注目する必要がある。
豊かな生産基盤に恵まれた古墳時代の群馬は元気だった。その証は、古墳の数だけではなく、内容にも認められる。その一つが埴輪である。特に人物や馬の埴輪の充実ぶりが目を引く。これらの種類の埴輪が樹立されるのは、古墳時代の後半のことである。そのころの近畿地方を始めとする他地域の古墳を見てみると、埴輪をめぐらすことがさびれてきているのがわかる。埴輪を持つ古墳は非常に限られていた。ところが、群馬県の場合、埴輪は大盛況で、いずれの古墳にも豊かな埴輪の世界が表現されていたのである。群馬県の地域が最絶頂期にあったことがわかる。
最後に群馬と馬のつながりを見てみよう。奈良・平安時代の群馬県は朝廷にたくさんの馬を差し出す生産地として知られていた。その生産が群馬で始まったのは、古墳時代の中頃(今からおよそ1550年前)である。もともと馬は日本列島にはいなかった動物で、このころ朝鮮半島から渡来人によって、当時の中心地である近畿地方に伝えられたのである。当時の群馬は東日本屈指の有力地域だったから、ほどなくして馬が伝えられた。当時の馬の役割は、乗用車であり、トラックであり、またトラクターだったわけであるから、またたくまに需要が高まったことは想像に難くない。広壮な山麓地帯をひかえる群馬は、馬生産にとっても格好の地域だったのである。事実、子持村の白井遺跡群の調査で、西暦550年頃に降下した榛名山の噴火軽石層の下から無数の馬のひづめ跡が発見され、ここで馬が飼育されていたことがわかっている。
(文責・右島和夫)